ロバート・ローズ リンク集
1985年のMLBドラフト5巡目でカリフォルニア・エンゼルスに指名され契約。1989年、メジャー初昇格。1992年、移動中の交通事故で骨折したためマイナーに降格し、その年のオフに横浜ベイスターズと契約。
来日当初は併殺のとれる二塁手として打撃はあまり期待されておらず、守備要員という印象すらあった。同じく1993年に入団したグレン・ブラッグスの方が長打力があり評価が高かったが、驚異的と思えるほどの勝負強いバッティングを見せ、来日1年目から19本塁打ながら94打点を挙げ、打点王のタイトルを獲得。長年チームの正二塁手であった高木豊から完全にポジションを奪い、同年オフに高木を戦力外に至らしめた。ブラッグス退団後の1997年からは横浜不動の4番打者となり、「マシンガン打線」のポイントゲッターとして、1998年のリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。
1999年、一度引退宣言をしたが後に撤回。開幕から例年にないハイペースで打ちまくり、6月30日にはプロ野球史上初となる自身3度目のサイクル安打を記録。特に打点はシーズン記録(161打点)の更新が期待されるほどで、7月22日のヤクルトスワローズ戦では1試合10打点のセ・リーグタイ記録を達成するなど、史上初めて前半戦(81試合目)で100打点に到達。7月25日に行われたオールスター第2戦では2度の満塁でのタイムリーヒットに加えソロホームランを放ち、オールスタータイ記録となる6打点を挙げてMVPに選出されている。
この年チームは3位に終わったものの、この年記録した153打点は小鶴誠(松竹)の161打点(1950年)に次ぐプロ野球歴代2位の記録となり打点王、さらに右打者では当時史上最高の打率.369 で首位打者、192安打は当時セ・リーグ歴代1位で最多安打、本塁打もリーグ3位の37本と、いずれも驚異的な打撃成績を残した。この年のセ・リーグMVPは優勝した中日の野口茂樹だったが、投票前は新人投手で20勝など投手4冠に輝いた上原浩治(巨人)を推す声も強かった。しかしローズをMVPに推す声はあまりなかった。
2000年にも2年連続でリーグ最多安打を記録するが、そのオフにアメリカでの生活を家族が望んだことや、高額となった年俸・複数年契約の希望など、横浜球団との条件面での折り合いがつかなくなったことから、横浜を退団・帰国した。
2年間のブランクの後、2002年シーズンオフに千葉ロッテマリーンズと契約し日本球界に復帰。しかし、春季キャンプ中の紅白戦で8打数無安打と極度の不振に陥り、そのままキャンプ途中に憔悴しきった表情で「野球に対する情熱と野球に関するすべてのものがなくなった」との記者会見を開き、プレーすることなく開幕前に退団、引退となった。
現在、横浜ベイスターズのチャンステーマにローズが現役のときのテーマが使われており、ジョン・シピン、カルロス・ポンセなどと並んで、球団史上に残る外国人選手の一人として今も多くのファンから愛されている。
打撃については、右打者であるが右中間から中堅方向の打球が多かった。特に右中間方向の打球に関しては、打った瞬間には平凡なライトフライのように見える打球がグングン伸びて本塁打ということも多かった。また、三塁打も多く記録した。横浜スタジアムでの練習時でバックスクリーンの一番上に打球をぶつけ、周囲の度肝を抜いたことがある。自宅にジムの機器を徹底して揃えるほどウエイトトレーニングには熱心であり、入団1年目には180cm・85kgという登録だったが、横浜を退団する2000年には97kgにまで体重が増加していた。その結果は、1999年の37本塁打という長打力アップにも現れている。
在籍8シーズン中、打率3割を7回記録するなど通算打率.325を残している。生涯通算打率ランキングの条件となる4000打数まで71打数足りないが、仮にこの71打数すべて凡退したとしても.319であり、レロン・リーの打率.320を抜いて実質のランキング1位と言われることがある。(71打数6安打で2毛上回る)
* 憧れの選手はスティーブ・ガービーであった。
* 薔薇の絵柄をトレードマークとしており、着衣のワンポイントなどにしていた。
* 巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかくシングルヒットを打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とまで恐れられていた。
* ローズが満塁で打席に入った際、豊田泰光(当時フジテレビ解説者)は、「私が敵の監督だったら『敬遠四球で押し出しで1点献上しても良い』と指示する。次打者も満塁男の駒田であるが、それ以上にこういうケースでローズは8割以上打つイメージがある」と言わせるほど、驚異的な勝負強さを誇っていた。[1]
* グラウンド上では、審判への抗議や死球に対する報復行為とは無縁の紳士でもあった。しかしブラッグスが与田剛の投球に激昂した際、逃げる与田を捕まえ、ブラッグスをアシストしたことがある(斎藤隆は後年、ブラッグスとローズのタッグは最強だった旨をプロ野球珍プレー・好プレー大賞で語っている)。
* 1998年から2000年までチームの監督を務めた権藤博を「最高のボス」と慕っている。ローズは毎年のように自分に取って代わる外国人を獲得したり、年俸を渋ったりする横浜フロントにわだかまりを持ち、1999年には引退も考えていた。同年の夏頃、権藤は球団通訳ではなく、英語を話せる自分の娘のみを同伴させて1対1でローズと腹の割った話をした。結果「権藤がボスでいる間は引退を考えないようにするよ」と権藤に全幅の信頼を置いた。そして権藤が退任した2000年に、自らも横浜を去ることになる。
* 引退の理由の一つに、家族との時間を大切にしたいということを挙げている。自分の知らないうちに娘がブラジャーをするようになっており、そのことに関して「娘の成長に目を向けられないほど、家族のことをほったらかしにしてしまっていた」という旨の発言をしている。
* 8年という長い間横浜球団に在籍していたが、当時横浜の渉外担当だった牛込惟浩によると、ローズは日本語を一切喋ろうとも、覚えようともしなかったと言う。これについて牛込は「あくまで自分はアメリカからの助っ人であり、日本に染まりたくはなかったのではないか」としている。また、「ベースボールマガジン」では来日当初は日本語を覚えようとしたが、結局「日本には野球をしに来ている」と割り切る思考に転換して、日本語を覚えるのを断念した、とあった。しかし孤立していたわけではなく、退団が決まった際、二遊間を組んだ石井琢朗や佐伯貴弘らは号泣したと言い、石井は当時受け持っていた週刊ベースボールのコラムに、ローズへのメッセージを掲載している。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』